音楽療法士、Tさんの著書のエピソードです。
老人性うつ病で入院しておられたAさんには、
四人の息子さんと一人の娘さんがおられました。
三人の息子さんをいずれも戦争で亡くし、末の息子さんは、わずか十八歳の時、
特攻隊で飛び立ったまま、骨さえ帰ってこなかったそうです。
骨の代わりに石の入った白木の箱を抱きしめ、Aさんは大声で泣き崩れました。
そのAさんを見て御主人が、「涙など見せるな!みっともない!」と怒鳴りつけたのでした。
それ以来Aさんは二度と涙を流さない人になってしまったのです。
一人取り残され、孤独感はますます募り、Aさんの心は次第に
氷のようになってしまったのでした。
このAさんの背景を知ったTさんは、Aさんの心の扉を開かせる曲は何かないものだろうか
と考えた末、ある曲を聞かせました。
Aさんが声を挙げて泣き出されたのは、その曲の1番が終わり、
セリフの部分に入ったところでした。
「また引揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない…
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか…
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ…」
まるで能面のように無表情だったAさんの顔がくしゃくしゃに歪み、
乾ききった瞳から涙が溢れだし頬を伝って流れました。
一曲が終わるまで引き付けを起こしたみたいに激しい反応をこの曲に対して、
来る日も来る日も示し続けたのです。
入院して以来三年間一度もしゃべったことのなかったAさんが、
「セ・ン・セエ・ア・リ・ガトー・ゴ・ザ・イ・マ・シタ」と一言一言、
体の底から全力を絞り出すように言ったそうです。
この時を境にAさんは急速に回復していかれました。
たった一曲が、Aさんの心を開き、回復へと導いたのです。
そのような力が音楽にはあるのです。